ノリと勢いで

皆さんお久しぶりです。

 

記事を更新しない間にいろいろなことがありました。

 

…その中で一番大きなことを言うと病気になったことです。

しかも難病。

 

それでメンタルも病んで今の今までだらだらと過ごしてきました。

 

ですが、それでは何にも残らないしむずがゆいままだと思うから

なんとなく大学を受けようと思いました。

 

今からやっても間に合わないかもしれないしどうにもならないかも。。。

でも人生は一度きり。やらなきゃ後悔する。

 

そんなふざけたようなわからない気持ちだけどもう一度挑戦してみようと思います!

 

ではでは、ごきげんよう

 

過去に戻ろうとしてしまう

僕は高校入学と同時に恩師である先生が、黒板に「ようこそ、新たな世界へ」という掲示をした。当時これを見た僕はこんな考えもあるのかと思っていた。
このことも忘れ、学生生活を送っていたが、とうとう卒業の時がやってきた。その時、たまたまではあるが同じ先生が担任をしており、卒業の時も同じように「ようこそ、新たな世界へ」という掲示をした。ここで自分は新たな世界へ行くのだという自覚をおぼえ、不安と共に楽しみを覚えた。
ここまでは自分の過去の回想で、タイトルとは関連がないように思える。自分もそのような事は今まで思い出すこともなかったが。自分の過去を思い出した時に思い出したのだ。
生きるということには喜び、悲しみなどの様々な感情を伴う。その感情から逃れたくなる時、過去の時間を思い出し、それに浸ってしまう。でも、そういう感情を反芻したところで得られるものもない所か、さらに負の感情を掻き立てることになると思った。
かくゆえ、自分が考えたこうした感情から脱却して今を生きる力となる思考は、上記の新しい世界へ行くことである。
確かに私たちには良い過去を持っていることがあって、辛い時にはそれを思い出すこともあるかもしれない。だが、私たちは入学、卒業などの区切りを経て自分の歴史のピリオドを打っている。過去は作られるから出来ているのだから、過去を変えることは出来なくとも、過去を作ることは出来る。
冗長になってしまったが、私の言いたいことは過去に囚われすぎてもいいことは無いということだ。だが、過去を思わないのは無理だから、程々にしておくのが1番良いのだろう。

属性と同一化と学歴コンプレックス

私は学歴コンプレックスをこじらせている人がネット上で多いと感じるのは、このためであると考えた。学歴はその人の属性の一部でしかないのに、大学と自分を同一の存在としているからだ。
これは世間一般に高学歴と呼ばれている人でも非常に危ない考えであると思う。何故ならば学歴こそ自己であるかのごとく錯覚してしまうからだ。この状態が続けば、人の判断基準に学歴が付きまとって健全な人間関係を構築できなくなる他、アイデンティティが学歴に依存しているため、全てにおいて学歴に縛られる可能性がある。
ここで、学歴コンプレックスについて書いたのは、最近のネットではそのような煽りが多く見られるためである。
私は個人の属性には、色々なものが添加されており、学歴という材料のみでは判断できないと思っている。このような人の事を蔑むような情報が氾濫しているのは非常に嘆かわしいし、それによって憎悪をあおがれた人同士で暴言を交わし合う場面も見苦しいものだ。
また、煽りによって被害を被る人は、それに文句をつける場もない上に、それを1人で抱え込むこととなるのでとてもいたたまれない感情になる。
そのためにも、属性の同一化は危険なのである。現実の社会でそれらの情報を避けるのは難しいが、無駄に傷つかないためにも、その内容を深追いしたりせずに、その情報から離れ、心をそっとしてあげる時間が必要である。
非情にも煽りの宣伝は人々の知的好奇心を刺激し、それを食い物とされてしまう。蝕まれないためにも日頃から気をつけていきたいものである。

学生の不安感

私は大学生であるが、コロナで親の仕事に迷惑をかけることが出来ないため、アルバイトやサークルに入ることを躊躇っていた。
アルバイトについては自分は今お金に困っていないので不要不急だと考え、コロナが収まるか本当に金に困った時くらいにやろうと思っているが、サークルについては、休日等何もせず無駄な日を過ごしていることが多いと思ったので入ろうと考えた。
そして私はサークルの見学に行ったのだった。そこでは、見学ということもあるのだろうが、あまり練習などはできず踏み入った見学というふうにはならなかった。大学側が活動を緩和したとしても、それには制限がかかっており、入室する人数の制限や時間が設けられているためである。
そうして見学を終えたわけだが、帰りに見学を共にした人と話をした。見学に来た人は皆、入部するのをためらっていたようだ。これは前述のことを鑑みれば当然のことである。
だが、この会話で思いがけないことがあった。それは、ためらいはあるもののそこにいた皆は何かをしたいと思っていたことである。テンプレート的ではあるが、やはり大学生であるということから、サークル活動には勤しみたいのである。そこには自分の場所を求めているからこそ出てくるのかと考えられる。
それらの不要不急な活動は、私たち大学生にとっては必要な要素であり、アイデンティティに関わるものである。そのために早くこのコロナ禍を脱し、今まで通りの生活に戻れることを切に願う。

情報に踊らされてはいけない

今の社会にはあまたの情報が散りばめられている。特にインターネット上では誰が言ったのかが分からないような真偽不能なものもある。
ここでなぜ私が上記のタイトルのように感じるのか、それは自分の知見が狭まるのでは無いかと思うからである。
そのきっかけはSNSにある。私は何気なく色々な人が言う情報に触れているが、それが1番自分にとって悪影響を与えているのだと知ったのは最近のことだ。他人の意見を自分の意見のごとく思い込むことが無意識の中で起きているからだ。これはとても危険で、自分というものがない、植物のような人間になってしまうかもしれない。
普段の中で大衆が思っていると思わせる情報も、単なる個人の意見にすぎないものがあったり、むしろ大衆の意見が矮小化され、それを世相だと思えないような情報もある。まとめサイトなどは、人の関心を引くために敢えてマイナスなことを強調するような見出しにしている事が多い。
以上つらつらと書き連ねて分かりにくくなってしまったのは申し訳ないが、私は今何でも調べられてわかった気になれる今の世の中が、こうした現実との乖離を生み出しているのではないかと思った。